文字文学

1000文字程度でまとめます

君の家にはあるかい?

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君の家にはあるかい?これを読んでいるみんなに是非聞いてみたい。

 

なんの話かわからないと思う。

でも、君の家にあるかを聞いてみたい。

 

「ダイソン」

 

ダイソンの掃除機が登場した時には世間がだいぶざわついたと記憶している。

今まではフィルターやら紙パックやらが必要で、フィルターが目詰まりしてしまって吸引力が使うたびに落ちていってしまう物であった掃除機。でも、そんな今までの掃除機と一線を画す存在としてこの世に登場した。

 

「吸引力の変わらない掃除機」

 

その謳い文句とともに彗星のごとく現れた。ダイソン。

吸引力が変わらないというインパクトはそれはそれは凄かった。CMの、なにやら掃除機の中で竜巻のようなものがグルグルしてホコリを凄い感じで吸い取っていくアニメーションもインパクトがあった。

 

我が名はそのダイソンの掃除機があるのだ。と、いうかこれを書いてるその日に我が家に来た。

どうやら、親が頼んだらしい。古くなっていたからね。

つまり、ダイソンが来なければこの文章すらこの世に出ていなかったということだ。と、いうか書くこともないなと悩んでいたのでもしかしたら休載になっていたかもしれない。

 

だから今週も文字文学を書けているのはダイソンの掃除機のおかげなんだ。ダイソン、ありがとう。

 

これだけダイソンの掃除機を褒め称えているけど、まだ一度も使ってないよ。そりゃそうさ、今日来たばっかりなんだもん。

しかも、来た時には充電すらされてない。今は目の前で充電されているよ。うちのが手こずっていたので自分が手伝って設置した充電セットで充電されているよ。そして、我が家が少し汚れてきて、使われるその時を静かに待っている。

 

それまで使っていた掃除機達には悪いけど、やっぱりダイソンの掃除機がある時のテンションと、それまでのテンションではだいぶ違うよね。

それまではあまり変わりばえのしない形、性能の掃除機だったから新しい物が来たところであまり感情は揺さぶられなかった。でも、今は違う。

 

あのダイソンの掃除機なんだもん。テンションは否が応でも上がるよね。

なんなら、早く我が家が汚れてくれないかなとすら思っているよ。そう、ダイソンはもしかすると人を狂わせてしまう魅力があるのかもしれないね。

 

そんなダイソンの掃除機、我が家にはあるよ。

 

君の家にはあるかい?

肉の幸せ犬の幸せ

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これは以前、この文字文学で書いた「ほうとうの話」にも少し関わる話である。

 

ほうとうの話で書いた時、親戚一同とおじいちゃんとで集まったと書いたが、元々その集まりは年始に必ず行なっていた。

父方の兄弟達とその子供達(自分にとっては従兄弟)と父方の祖父母。全員で15人程度。年始のその集まりは賑やかで自分も楽しみにしていた。

 

集まりでは普段食べないような豪華な料理が振舞われた。特に、親族では圧倒的に男が多いために高い肉が出てくることが多かった。また、従兄弟がだいぶ年上なのでもう社会人であり、ともすればお年玉の額はそれはもうすごかったりというのも年始の集まりを楽しみにする理由の一つであった。

 

ただ、それよりも楽しみだったのが従兄弟の飼っている犬に会えることだった。

その犬は大型犬で、どうやらラブラドールレトリーバーシベリアンハスキーの雑種らしい。人を噛むことは絶対に無く、元気ではあるが迷惑はかけない偉い犬だった。また、自分を人間と思っているのか、とにかく人間と同じものを食べたがる食いしん坊でもあった。

動物が大好きな自分は小さい頃から、年始にその犬に会えることを毎年とても楽しみにしていた。

 

毎年その犬と近所の公園で散歩をしたり、こたつで一緒に寝たり、とにかく動物は好きだがなかなか普段触れ合えることも無いのでここぞとばかりに多くの時を過ごした。そんな時間は自分にとって本当に幸せな時間だったと思う。

 

さて、そんな昼の時間とは変わり夜になると前述したような豪華な料理が振舞われる。

大人達はお酒を飲み楽しそうに話している。子供である自分や自分の兄弟はゲームをしたり、犬と遊んだりしてそれはそれで楽しく過ごしていた。

夜ご飯の時も基本的には犬も同じ部屋にいる。だからこそ自分達兄弟もご飯を食べるのもそこそこにしてずーっと犬と遊んでいられた。

 

そんな宴会もピークに達してきた。自分達兄弟も大人達の会話に交ざりながら料理をある程度食べ続けていた。そして、メインの用意を手伝う。

 

その年のメインはしゃぶしゃぶだったので、鍋を置くためにスペースを空ける。その間、肉はそこらへんに置いておいた。

全部の準備を終えたところで従兄弟の「あーー!!!!!」という叫び声が。

 

見るとそこにはラップを剥がされ半分だけ残された高いしゃぶしゃぶ肉。そして、その奥で満足そうにしている犬がいた。

 

……世の中には、話すのと文章にするのとでは面白さがだいぶ違うという出来事が多い。

俺とPARCOの8ヶ月間戦争

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私は今、PARCOとの約8ヶ月間にも及ぶ長い闘いの中にいる。しかも、まだこの闘いは終わっていないしいつ終わるかもわからない。今日はこの闘いの記録を記していきたいと思う。

 

事の発端は今年の4月。

お誘いをいただいて吉祥寺の猫カフェに行っていた。

その猫カフェは内装が凝っていてとても良い雰囲気のお店であり、猫たちも人との距離がとても近く嫌がられない範囲で触れ合っていた。

 

そんな楽しい時間を過ごしている間、自分のリュックはそこらへんに放っておいたのだがそれが良くなかった。

猫にとって居心地の良いリュックだったのか、思いっきり粗相をされてしまったのだ。

 

お猫様の粗相なのでしょうがないが流石におしっこ臭いリュックを背負うわけにはいかない。そこで行ったのがPARCOである。

 

PARCOで新しいリュックを買い、レジで会計になった。そこで、「PARCOカードに登録すれば割引になる」と言われたのである。

 

普段はそういうのはめんどくさがって全て断っているのだが、この時はなぜか会員になることに了承した。何故かはいまだにわからない。

この登録、クレジットカードの登録も兼ねているのでめちゃくちゃ時間がかかる。そして、このクレジットカードの登録が後々の火種となる。

 

クレジットカードの登録の際、口座名などを書かないといけないのだがここでやっとめんどくさいモードに入り後で登録するという手続きを行った。

そしてその日は楽しくお酒を飲んで終わった。

 

後日のことである。

PARCOから一通の封筒が届いた。

内容は、「あの時登録しなかった口座の登録をしてください。」とのこと。

早速、規定の用紙に必要事項を記入して返信した。

 

しかし、何故かまた封筒が送られてきたのだ。

中身を確認すると、どうやら印鑑が違っていたらしい。普段、銀行で印鑑は使っていないので覚えていないが他のものだったのだろう。

自分の印鑑は何本も持っていないので思い当たる別の印鑑を押印してまた送った。

 

後日……。また封筒が届いた。そして印鑑が違うという内容の手紙。

「あれ、また違った?」と思いさらに別の印鑑を押して返信。

そしてまた封筒。

 

こんなやり取りをもう8ヶ月もしている。そして未だにゴールは見えていない。

 

さらにもう1つ。

正解の印鑑は学校の事務室に預けっぱなしなのを思い出した。

指に惑わされまくる

私たち人間の中には(自分もそうだけど)指(手)に魅力を感じる、もう少し言えば“指(手)に惑わされる“いわゆる指、手フェチというような人がいる。自分もそのうちの1人であったりする。

 

女性の中には男性の男らしいゴツゴツとした手が好きであったり、逆にしなやかな手が好きだったりというタイプの人がいる。

逆に、男性の中にも女性の綺麗な手が好きであったり、たくさん苦労をしたような手が好きだったりというタイプもある。

 

自分の好きな漫画、「ジョジョの奇妙な冒険」の第4部、ダイヤモンドは砕けないの中に出てくる敵キャラの吉良吉影というキャラが漫画の中でこのようなことを言っていた。

 

「あなたの『手』… とてもなめらかな関節と皮膚をしていますね……」

「ほおずり……してもいいですか?」

「わたしは…子供のころ……『モナリザ』ってありますよね……あの絵…画集で見た時ですね、組んでいる『手』…あれを初めて見た時……勃起しちゃいましてね」

 

つまり、この敵キャラの吉良吉影も手フェチ、しかもかなりのフェチを感じていたらしい。(ただ、読めばわかるがただのフェチとは違ったようだ)

 

このように人間1人を突き動かすような魅力、もしかするとその人の心の動きや衝動さえも大きく動かすような、そんな魅力を持っている気さえさせられる。それが人間の指や手であるように思う。

 

そんな人間の指のや手があまりにも魅力的すぎて、時にはそれに惑わされ人間1人の人生を狂わせるようなこともあるだろう。

また、「Mother’s Hand」と呼ばれる、痛みなどを感じている部分に手を当てるだけでそれを和らげるような、そんなある種の魔法のようなものさえも持っているのが指、手であったりもするように思う。

 

人間がここまで進化でき、文明を発展させられたことの大きな要因は指先を器用に使えるようになったからだという説もあるように、人間にとって指や手は本当に大きな存在である。そんな指は人を惑わせるような魅力さえある。最近はそんなことをふと考えるのである。

 

でさ、いつも惑わされるんだけどね。

 

指の“第1関節“って手から数えて1つ目?指先から数えて1つ目?これいっつも迷うんだよね。

人間発信で考えたら手から数えて1つ目が第1関節じゃん?なのに本当は指先から数えて1つ目が第1関節。わかりづら。

ネットでよく見る話の逆側の話

ネットでよく見る話ってのは色々あるけどその中でも最近たまに見るなって話がある。

それがこれ

 

「体育のサッカーの時間が苦痛だった」

 

中身は基本的に運動嫌いな筆者がサッカー得意な人に怒られるのが怖いとか関わりたくないからグラウンドの隅に逃げてるとか逃げてるのにボールはなぜかこっちに来るとか。そんな内容が多い。

 

多分、ネットの世界ってそういう人が多いからなんとなくそんな話が多くなるんだろうなと思う。

今日はそんな世界の逆側、つまり「体育のサッカーの時間がめちゃくちゃ好きだった」話をしたい。

 

自分は小学校から高校までサッカー部、現在もサッカー関係の資格を取ろうとしているほどの大のサッカー好きである。

であれば、それはもう学校のサッカーの授業は大好きだった。

ただ、それにも理由があったのである。

 

自分は同年代からすると身長が高く、かといってサッカーでいう足元の技術的なものはあまりなかったので中学の2年生あたりからはずっとキーパーをしていた。つまり、部活ではほとんどボールを手で扱っていたのだ。

ただ、自分の中ではやはりボールを”蹴る”ということに楽しさを感じていたのもあり部活の紅白戦などでは時々キーパー以外のポジションで試合に出ていたりした。

それでも部活の大半、つまり自分がサッカーに関わる時間の大半はキーパーに費やしていたのでなんとなくサッカーをするということに対して消化不良だったのも事実である。

 

そんな中で自分にとっての救いであったのが「体育のサッカーの時間」なのだ。

キーパーのポジションは基本的にサッカーに関わりたくない人などが入るため、自然と自分はキーパー以外のポジション、つまり“ボールを足で蹴る“という本来楽しいと感じていたことができる。

そうなれば大半がサッカー未経験の中、自分の好きなようなプレーができて周りからは「上手い」と言われるようなこの「体育のサッカーの時間」、それはそれは至福の時であった。

 

サッカーや運動が得意ではない、好きではない人々からすれば体育の時間は苦痛の時間かもしれないが、それを楽しんでいる側の世界のうちの1つはこんな感じであるとここに記したいと思う。

 

ちなみに、高3の体育のサッカーの時間にグラウンドの脇では当時別れたばかりの元カノが他の男子とイチャつきながらバレーボールをしていてなんかめっちゃムカついたのを思い出したのでこれもここに記しておく。

今年もあと100日切った

よく、9月の終盤になってくるとそこらへんで見るワードがタイトルの「今年もあと100日を切った」である。

よく、【悲報】などという文字列とともにTwitter掲示板などに書かれることが多い印象がある。

 

さて、この「今年もあと100日切った」について少し考察してみたいと思う。

というのも、1年は暦が今と同じ刻み方をし始めた時からずっと365日と決まっている。(うるう年とかうるう秒とかくだらないチャチャを入れる人間は一生足の小指をタンスにぶつけ続けて欲しい)

 

と、いうことはつまり、今年もあと100日を切ったということは単純にまだ1年の1/3程度も残っているということに他ならないのでは無いか。

なんかわからないが今年も残りわずかみたいな感じで「あと100日」なんて言っているが、実際はまだ1年の1/3程度も残っているではないか。

 

みなさん、例えばお菓子なんかを食べていたとして残りが1/3だったとしてそれをわずかだと捉えますか?それともまだ1/3も残ってると捉えますか?

なんとなくまだ1/3も残ってると考えた方が得な気がしませんか?

 

つまり、今年もあと100日しかない。まだ何もできてないなどというツイートなどに踊らされずに、まだ今年も1/3程度残ってるのだからやりたいことはやれるなと思った方が良い気がしませんか?

 

なぜかあと100日しかないなどと焦らせてくる人間には一度冷静になって、「まだ1年の1/3も残ってるよ」と教えてあげたい。

そしたらきっと世界は少しだけ良くなる気がする。

残りわずかなことを嘆くよりもまだ残っていることに幸せを感じる。そんな考え方でこれからの人生を生きていこう。

 

そんなことは全く考えていませんでした。

なんとなく毎年のように「【悲報】今年もあと100日」みたいなツイートが流れてくることに薄ら寒さを感じ、歯磨きをしている最中にそのことについてぼんやり考えてたら、「よく考えたらあと100日ってまだ残り1/3もあるじゃん。何が【悲報】だよ。」と、くだらないことを今日も今日とて考えてただけです。

 

そういう性格なんです、自分。

でも、そんな自分のちょっと冷静なところが好きだったりもします。どうですか?

しゃらくさい??

 

うっせ!!!

インフルエンザとトンカツ

先月、1週間ほど風邪をひいていた。

自分が幼い頃は体が弱くよく風邪をひいていたのだが、流石にもう今年で24にもなりあまり風邪をひかなくなった。

 

ただ、やっぱりシーズンに1度は体調を崩すのだが体調を崩すと毎回思い出すことがある。

 

あれは自分が小学生の時だった。

まだ体が弱くしょっちゅう風邪をひいていた自分はその時期毎年のようにかかっていたインフルエンザにまたかかっていた。

我が家ではインフルエンザにかかると和室に隔離されるという処置が取られていた。

 

そんな隔離生活も1週間が経ち、ある程度治りかけていた時の夜ご飯として母が買ってきてくれたのがトンカツだった。

今はないそのトンカツ屋さんは町のただのトンカツ屋さんではあったのだがかなり美味しく、よくお祝い事があったりすると食べに行っていたようなお店だった。

 

そんなお店のトンカツを食べながら「そろそろ学校行けるかなぁ」なんて思っていたところに母が入ってきた。入ってきて突然、笑いだしたのである。

 

訳がわからなかったがその後の一言

 

「後ろ姿が侘し過ぎる!!」

 

この一言でなんで笑われたのかわかった。

当時(今もそうだが)ひどい猫背であり、さらに、和室で床にご飯やトンカツを置きながらの食事であるのでさらに猫背に拍車をかけている。

そんな息子の背中から漂う哀愁に思わず笑ったようなのだ。

 

まだ小学生の、治りかけとはいえインフルエンザに苦しんでいるような息子の背中を見て笑う母親に、なんとなく自分は安心感を覚えた。

もう自分の置かれている状況はそんなに重くないんだなと感じた。

 

そんな母の買ってきてくれたトンカツの力もあってかそのすぐ後にはもう治った気がする。

おそるべし母親の力である。

 

以上のような、もう10年程度も昔の出来事ではあるがなぜか自分の中で今もなお忘れられない思い出となっているのがこのインフルエンザとトンカツである。

 

さて、皆さんは「パブロフの犬」というものをご存知だろうか。

パブロフの犬とは、簡単に言うとある条件のもとで一つの行動や反応を示させるように訓練すると、同じ条件下では同じ反応を無意識にしてしまうというものである。

 

インフルエンザとトンカツ、あまりにも思い出として濃く残りすぎて、トンカツを食べると必ず風邪っぽい症状に見舞われるようになってしまった。

 

トンカツは好きだけど。